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私の岩国

印刷用ページを表示する 掲載日:2022年1月21日更新

「高校生の頃 –後編-」 岡村康夫さん その6

【高校生の頃 –後編-】

 

 田舎出の私は要領が悪く、高校では最初それまでのように勉強がうまくこなせなかった。そのなかで友だちが参考書をもっているのを珍しく羨ましく思ったことがある。ただ、当時は塾にも行かず教科書だけで勉強して大学受験ができる良い時代でもあったと思う。そういう高校生活のなかでハンドボール部に入部したのは川西校舎に移った2年次からであった。今から考えるとこれも逃避の一つであったと思う。ただ、持て余す思いに苦しみ、動機づけのはっきりしない勉強が嫌であったことだけは確かである。


 ハンドボールについては、中学校以来の経験もあり、直ぐに試合にも出ることができるようになった。私はもちろん主力選手とは言い難いが、中学時代から活躍している友だちが中心になって、それなりの好成績を上げていた。しかし当時、山口県には下関に常勝チームがあり、われわれのチームは県下でも中国地方でも結局2位どまりで、インターハイ出場は逃してしまった。

 

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 ↑川西校舎

 

 そのあとのことであるが、3年生になり、いよいよ現実に迫られ嫌な勉強に取り組まなければならなくなった。そういうなかで、私にとって実に面白い経験があった。それは、ある日突然と言って良いと思うが、いつのまにか授業中にその内容をすべて空間的・場所的に記憶できるようになったのである。それからは、授業中は極めて集中力を要するが、暗記を主とする科目は苦痛ではなくなった。これは私自身にとっても極めて興味深い経験であった。


 自閉症の人のなかには経験したことすべてを克明に記憶できる人がいるそうである。程度の差こそあれ、私にはそういう何らかの傾向があったのかもしれない。これは私に限った話として聞いて頂きたいが、自閉的傾向は孤独感を深め、極端な躁鬱状態を引き起こすことがある。そのため会話力に欠け、対人能力に劣る場合もある。しかし、それは時には人間の潜在能力を引き出すこともあるのであろう。私が大学で教鞭を執るようになってから、心理学の先生に私の記憶力の話をしたとき、その傾向を指摘されたことがある。


 しかし、また私の経験はそのような理解の仕方ばかりでは説明し切れないようにも思われる。最近、たまたま似たような空間的イメージ的暗記術についてのテレビ放映を見て、改めて驚かされた。それは、訓練あるいは努力集中の結果として、誰でも記憶力を高めることができるというものであった。私は知らないうちにそのコツを掴んでいたとも言えるであろう。


 これに対して、暗記を中心としない理数系の科目は苦手で、私はそういう能力に長けた友だちの得意そうな説明を聞いて悔しい思いをした。しかし、目前に大学受験があったとは言え、そもそも自分の学ぶ動機がはっきりせず、自発的な勉強の意欲はなかなか湧かなかった。また全体的に高校の教育課程は自分にとって考える余地はあまりなく、そのなかで私は決して優等生とは言えなかった。

 

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 ↑川西校舎

 

 そういう高校教育課程のなかで唯一面白かったのは倫理社会という教科であった。私はその教科書に出て来たセーレン・キェルケゴール(1813~1855)の言葉に惹かれた。教科書に載っていたのは、彼がヘーゲルを批判する言葉であった。友だちも私のことを変なことばかり言う奴だと思っていたに違いない。教科書ではデンマークの憂愁の哲学者、実存主義思想家と紹介されていた。


 さっそく岩波文庫版の彼の『死に至る病』の翻訳本を西岩国の本屋さんに買いにいった。その本屋さんは、西岩国から横山に向かうバス通りの錦帯橋に近いロータリーの傍にあった。当然そこには在庫はなく取り寄せてもらった。本屋さんからその本が届いたという電話を受け取った母は怪訝な顔をしていた。これも現実からの逃避の一つでもあったと思う。ただ、その時は私なりに「アルキメデスポイント」、すなわち「そのために生き、そのために死ぬことができるような真理」(キェルケゴール)を求めていたと言えると思う。しかし、私自身もこれが大学時代の恩師との出会いに繋がるとは考えてもみなかった。

 

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 ↑キェルケゴールの墓(コペンハーゲン)

 

 大学に入学した当初、その頃はドイツ語を担当されていた恩師が、その授業のあと、ぼそっと『死に至る病』の読書会をやっているが来ないかと、みんなに声を掛けられた。授業を受けていた者のなかで一人、私だけがその読書会に参加した。恩師はあの時も声を掛けるのをどうしようかと迷っていたとあとで言われた。


 私は、高校生のときから、そして大学に入学してからも、夏目漱石が言っていることそのままであるが、何事にも「中腰」で、「根のない萍(うきくさ)」ように「空虚」であった。しかも「何だか不愉快な煮え切らない漠然たるもの」があって堪らなかった。そのような「不安」のなかで煩悶していた私が「鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てた」のである。(夏目漱石『私の個人主義』参照)


 当時は社会も大学も騒然としており、各地の大学では学生たちによる封鎖・占拠が頻発していた。いわゆるゲバ棒を振るい、機動隊と対峙するだけではなく、学生同士の乱闘騒ぎも起きていた。私たちの受験の前年度には東大の安田講堂が封鎖され、東大の入試が中止された。その時、岩国高校で開かれた大学進学後の奨学金の面接会場で、その大学紛争のことを問われた。私はなぜ暴力を使ってまで自己主張をしなければならないのか分からないと答えた。まだ社会や大学の抱える問題を少しも知らない地方の一高校生の模範解答であったと思う。


 学生運動は日米安保条約改定をめぐり、特に1960年代から激しくなっていた。しかし、当時の大学はその学生運動の末期的状況にあった。関東や関西圏の大学のみならず地方の大学でもそうであった。私の大学入学はちょうど1970年になる。まだその頃はマイク片手に世界のこと政治のことを大声で叫ぶ学生たちがいた。ただ、昂奮して体を前後に揺らして叫ぶ内容はほとんどが聞き取ることができなかった。そして、三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地における割腹事件や、浅間山荘事件が起こり、それを機に学生運動を離脱する学生も多くいたと思う。そのような騒然とした世相のなかで、高校時代以来迷い煩悶していた私に、すなわち、まさに出ることができない袋の中に閉じ込められていた私に「一本の錐」(夏目漱石 同上参照)が与えられた。ただし、それは私にとってそこから「道」を求める第一歩であった。

 

 

後記


 今回、岩国市広報戦略課からの依頼で、自分自身のこれまでを振り返る、私にとってもまたとない機会を与えられた。この場で、まず「私の岩国」という企画から大きく外れた内容になってしまったことをお詫びしたい。私としては、この拙い文章から、岩国で過ごした幼い日々から今日に到るまで、私が求め続け、また求められ続けていることの一端を読み取って頂ければ幸いである。改めて大方のご寛恕を乞いたい。


 最後に、少し難しくなるかもしれないが、付け加えておきたい。述懐的記述はどうしてもその整合性・連続性を追うことになりがちである。私の場合も例外ではない。ただ、「新しい始まり」は連続的には生じない。連続的に生じるものは、当然それまでの歩みの延長線上にあり、決して「新しい始まり」とは言えない。「新しい始まり」は非連続的に、過去も引き摺らず未来の憂いも断ち切る「前後裁断」においてのみ現前する。私の宗教的出会いはまさにそういう出来事であった。この度の「私の岩国」を熱心に読み、時々励ましと助言を頂いた方々に、特にこの点だけを申し上げておきたい。

 

 

                                          岡村 康夫