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「宇野千代生家と半月庵」 ミニー・Pさん その10

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年4月1日更新

 

今回お世話になる旅館「半月庵」は、錦帯橋から徒歩3分の距離にあるとても由緒ある料亭・旅館です。

江戸時代の終わり頃、武家屋敷であったお屋敷を明治維新と共に初代ご主人が譲り受け、茶屋(現在でいう料亭のようなお店)として創業したのが始まりだそうです。当時はそのようなお店を「○○庵」と呼んでいたとか。
その後、第一次世界大戦の戦時中に兵隊さんたちがだんだん戦争に行き、会うことが少なくなってしまいせめて半月に一度でも集まって会おうというところから「半月庵」という名前になったそうです。

 

こちらは、宇野千代さんの小説「おはん」の舞台としても知られています。

宇野千代さんは岩国市出身の作家で、「おはん」以外にも「色ざんげ」「生きて行く私」などのさまざまな小説や随筆を執筆し、数々の名言を残しています。

 

半月庵の大女将が宇野千代さんの生家があるとご紹介してくださったので、行ってきました。

そこは車で五分ほどのところにあり、私が行った日には淡墨桜(うすずみざくら)が咲いていました。

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この庭にはたくさんのもみじが植えてあり、秋にはこの庭が赤色に染まるそうです。


宇野千代生家にはボランティアの方々がいらっしゃっていろいろな説明をしてくださいました。
「宇野千代さんが東京から帰ってこられたときにはいつもこの部屋にいたんですよ」

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宇野千代さんは小説がスランプで書けない時期も毎日毎日同じ時間にペンを持ち続けていたそうです。
それでまた書けるようになったといったエピソードもありました。

私もどうしても曲や歌詞が出てこない時があります。
それでも毎日書き続けることが、自分を助けることになる、と以前聞いたことをこのエピソードで思い出しました。

音楽も小説も共通点がたくさんあるんですよね。

 

また宇野千代さんが残された言葉は、半月庵近くのあちらこちらに飾ってありその一言一言が心に染みました。

半月庵の大女将が、生前の宇野千代さんと交流をされていらっしゃったとのことで、どんなお人柄だったかを伺いました。
どんなことがあっても人を恨まず、一晩泣いたら次の日からは、前を向いて生きていらっしゃったそうです。

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また旅館の大女将がおっしゃっていましたが、宇野千代さんは桜が大好きで1年中桜の着物やバッグ、小物類などをお持ちだったそうです。

私は桜が大好きで桜の模様も大好きです。
でも春にしか持ってはいけないのかなと思っていたのですが、この話を聞いてから嬉しくて1年中桜のハンカチや桜のグッズを持ち歩くようになりました。

 


明日はいよいよ東京に帰る日。

半月庵の皆さんや宇野千代さんとお別れするのが少し寂しい、でも愛情いっぱいのお料理とおもてなしをしていただいた半月庵の夜となりました。

 

こちらがそのお料理の一部です。
私の好きな日本酒「金雀」といっしょにいただきました。
(私は一口しか飲めませんが笑)

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宇野千代さんのお話をたくさん聞かせてくださった大女将ですが、大女将の息子にあたる半月庵の旦那さんもとても優しく話が面白く、一つ一つのお料理に大変感動しました。

 

半月庵の大女将、旦那さん、そして女将、皆さん本当にお世話になりました。どうもありがとうございました。

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ミニー・ P.の「私の岩国」をここまで読んでいただきありがとうございました。

15歳で岩国を出て高校に行き東京の音楽大学に行きました。
岩国にいたのは子供の頃だったので大人になってもう一度岩国の方々とこんなに深い交流ができたことを大変嬉しく思っております。

 

岩国で以前お世話になった方々に会えて改めてお礼も申し上げることができて、ほんとに良い取材となりました。
岩国の皆様、そして岩国市職員の皆様、そして岩国市長に大変感謝しております。

これからも岩国が発展し、いつまでも美しい岩国の原風景を後世に伝えていけるような岩国市でありますよう、これからも私にできることで応援させていただければと思います。


岩国市の皆様本当にありがとうございました。

そしてこれからもよろしくお願いいたします。

 

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