卒業して40年ぶりの訪問で教頭先生にご案内頂いた学校に、当時の風景がよみがえってきました。思いがけず同級生の体操仲間も集まってくれてとても懐かしく、中学生に戻った気持ちで話が弾みました。
↑集まっていただいた同級生と記念撮影
岩国市立美和中学校は、地域で一つの中学校です。北中山小学校からバスで20分程中心地よりにあります。当時は一学年130人位で4クラスありましたが、最近では1クラスになってしまったそうで、少子化の影響が表れています
〇教室
私達の時代には暖房はスチームでしたが、現在はエアコンに替わっており、夏も冬も快適に勉強できそうです。スチームの時は、傍の席は汗が出るほど熱かったのですが、遠くの席は上着を着たくなる程寒かった記憶があります。だから勉強に身が入らなかったと言い訳をしていました。
スポーツが盛んな学校で、沢山の運動部があり、県大会で上位に入る部が多かった時代です。全員がなにかしらのクラブに所属しなければならないルールでしたが、入学時に色々見学すると運動部はどこも厳しく辛そうなので、私は書道部に入部しました。
〇体操へのきっかけ
中学一年の体力測定持久走での事です。元々走ることは大好きでした、なにしろ小学校6年間の山の上り下りで鍛えた足腰ですから。自分としてはマイペースで走っていたつもりですが、傍から見るとスタートからハイペースで飛ばす、ペース配分もできないバカな子に見えていたようです。どうせすぐにばてるだろうと思われていたのに、あれよあれよという間にそのままゴールして息もあがっていなかったそうです。このことが当時体操部顧問の先生の目に留まり、体操部に勧誘されました。陸上部ではなく体操部だったのですが、悩んだ末に入部を決意しました。
この体育館を卓球部と半分ずつ使っていました。練習中に再々ピンポン玉が転がってきて、顧問の先生がよく怒鳴っていました。右の写真は体操部の部室です。この頃は練習中に水を飲むことはご法度でしたが、私たちは何かと理由をつけては部室に入り、隠れて水を飲んでいました。文字通り私たちのオアシスだったのですが、今は部員もおらず廃部になっており部室も主が居ませんでした。
〇中学校一厳しい部活
体操部に入ると生活が体操部中心になってしまいました。とにかく毎日練習で、休みの日は試験期間中と年末年始の数日間、年間300日以上は部活でした。練習もハードで筋肉痛のない日はありません。練習が終わると外は真っ暗になっており、それからバスで小学校前まで帰り、そこから2kmの山道を登ります。筋肉痛の体に補強をするような過酷な生活でした。おまけに真っ暗な山道ですので、鞄には懐中電灯が必携でした。何故こんなことをしているのだろうと思うこともしばしばでした。
〇顧問の鬼先生
超スパルタで誰もが怖がる先生。姿が見えた途端に生徒は皆直立不動、大声で挨拶します。体育館に来るときはいつも竹刀を携帯しており、生徒は先生の姿が見えなくても気配を感じただけでシーンと静まり緊張感が漂います。注意されたことができなかったり、気の抜けた練習をしていると竹刀や太鼓のバチ、平手などで気合が入れられます。これは、「愛のムチ」と言われ、日常茶飯事のことでした。確かに体操は危険なスポーツで、少しの気のゆるみが大怪我につながります。その意味でも練習中は常に緊張感を持たせるのは重要なことで、今なら体罰ともとられる行為ですが、生徒や父兄からも苦情はありませんでした。大切な子供達に怪我をさせてはいけない、少しでも上手になって欲しいという先生の愛情と情熱に深い信頼を寄せていたのだと思います。また、常に勝たせる為の指導は、並大抵の苦労ではなかった筈です。礼儀に対してもとても厳しく、人としての教育にも手を抜くことはありませんでした。当時はとても煙たく思っていましたが、今は感謝しかありません。ここで先生と出会ったことで私の人生は大きく変わったと確信しています。高校進学、その先の社会人になっても体操競技を続けることができ、夢のまた夢であったオリンピック代表になれた訳ですから。
三浦由子