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「私の生まれた村/幼稚園の頃」 岡村康夫さん その1

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年4月1日更新

【私の生まれた村】
 私のふるさとは、岩国の一山間部、柱野(はしらの)と呼ばれる川と道路と鉄道と集落とが競合する狭隘な土地にある。現在では、そこに玖珂から岩国に通ずる国道2号線のバイパス・県道15号線(岩国玖珂線・欽明路道路)も通り、静かな山あいの村が便利になると同時に車の行き交う音に溢れている。川は錦川水系の一つである御庄川(みしょうがわ)と古宿川(ふるじゅくがわ)とが出合う場所となっている。写真は村の岩国側のバイパス入り口に位置する五所神社(ごしょじんじゃ)からの遠景である。写真の右手に川と生活道と鉄道(JR岩徳線)があるが、村の全体ではそれぞれの集落がこれらの川、道、鉄道を右手あるいは左手に見る形で散在している。写真手前に見える集落は市(いち)と呼ばれ、私の実家はこの写真の右手奥の古宿(ふるじゅく)と呼ばれる集落にあった。現在では上に述べたように、この左手を県道15号線バイパスが走っている。それから、写真に見える市の集落の途切れる左的奥に位置する五瀬の湖(ごせのこ)ダムからの水流は、右側手前に御庄川として錦川へと下っている。

 

柱野全景


 正面に見える少し低い三角形の山は、おおとり山と村では呼ばれていた。このおおとり山の麓を通って左手の山奥に入ると古宿地区の墓地があった。昔は年に一度、各戸毎に人を出して、墓地に通じる道の草を鎌で刈り、土の登り階段を鍬で整えることが墓参り時期の恒例となっていた。ある時、この行事に祖母と一緒に参加して墓地まで行くと、隣家の墓が陥没していた。その墓は、実家の隣にあった家の墓で、その家族はハワイに移住し、その守りを我が家が引き受けていた。昔はここの墓地はみな土葬で、埋められた棺桶が腐食し墓石ごと陥没したのである。この墓地へ到る険しい狭い山道を、棺桶を担いで上がるのも一苦労であった聞いている。村の先祖の山として、またはおそらくは疫病や穢れを避ける意味で、この山奥に遺体を葬ったのだと思われる。そこには、柳田国男が日本各地を歩いて収集した言い伝えにある「毎年時を定めて、先祖は還ってござる」ということや、「霊はこの国土のうちに留まって、さう遠方には行ってしまはない」(柳田国男著『先祖の話』)という言葉通りの世界を垣間見ることができる。現在ではすべて火葬となり、我が家も含め、その墓の多くはおおとり山の麓に移されている。
 私の子どもの頃には、おおとり山を子どもたちだけで登る行事があった。おそらく戦後繰り返し襲来した風水害から村を守ってもらうための祈願の行事であったと思われる。男の子たちが、年長者を先頭に、提灯を片手に登っていたことを思い出す。大人たちは麓で、子どもたちが「オオトリヤー、ヒューヒュラドン・・・」と大声を出しながら、暗い山道を提灯をともして登るのを見守っていた。私もこの行事の最年長者である中学一年生となった年にはみんなを先導して登ったことを憶えている。山の頂上まで登ると、われわれは先輩たちから教わった通りに、木の小枝を集めて極めて小さい拝殿らしきものを組み立て、風神様へ祈願する習わしであった。ある時は他の年長者が登り道の途中に潜んで、小さい子どもたちを脅かしていたことも今では懐かしい思い出である。そのような意味で、この祭りは風神様への祈願であると同時に、子どもたちの肝試しや成長の過程の一行事(通過儀礼)にもなっていたと考えられる。ただ、この行事は柱野でも古宿地区の子どもたちだけのものであった。
 この写真の見晴らしがある五所神社では毎年秋祭りが行われていた。各集落が毎年交代で祭りを準備し、のぼりを立てて開催していた。昔は神社の建物は木造であったと思うが、今は写真のような佇まいとなっている。この拝殿前で神楽等の踊りや出店もあって賑わっていた。その舞の中にはかなり卑猥な出し物もあって、子ども心には嫌であった。子どもの時にはもっと広い場所だったと感じていたが、その参道も狭く、ここで村の人が総出でお祭りをしていたとは思われないほどの広さであった。村の家々は、この神社の氏子であると同時に檀家、その多くは浄土真宗の檀家であった。家にも神棚と仏壇があった。私の祖母は毎日その両方を拝み、どちらにも手を合わせ南無阿弥陀仏と称えていた。

 

五所神社1

五所神社2

↑五所神社の境内へ続く道

 

【幼稚園の頃】
 さて私はこの村で生まれ、この村の幼稚園、小学校、中学校へと通った。同級生は30名くらいだったが、中学校までほとんどみな一緒であった。幼稚園は浄土真宗西本願寺派のお寺(教法寺)であった。行き帰りの道で悪戯をしたり、道草ばかり食っていた。ある日、お昼代か何かの小銭を紙に包んで手に握って幼稚園に行ったことがある。幼稚園に着いてそれが無いことに気づいて、慌てて半泣き顔で家に帰ると、祖母がどこかに落ちているかもしれないと一緒に探しに出掛けてくれた。案の定、道端に紙に包んだ小銭がそのままあった。祖母の笑顔と一緒に思い出す出来事の一コマである。後年、祖母にこの話をすると3歳か4歳の子どもに小銭を握らせていくのが無理だったと笑っていた。この幼稚園の頃の思い出の多くは祖母の記憶と重なっている。祖母から危ないから「おうかんであそんじゃいけん」とよく言われていた。おそらく父も母も仕事に忙しく、祖母がわれわれ兄弟に眼を配っていたものと思われる。とにかく、この時代は我が家のみならず、村のみんなが働いて食べることで精一杯であった。
 幼稚園は教法寺の本堂裏の別室にあって、そこからは裏の田圃と川の堤防が見えていた。冬のある日、ストーヴで温めていた牛乳瓶がわれて、若い女の先生が手から血を流し、蒼い顔をして近くの村の医者へ急ぐ姿を不安な面持ちで見送ったことも印象深い出来事であった。

 

教法寺1

教法寺2


 その他、幼稚園の記憶としては、悪戯をして仏様の前に座らされたことや、後に私個人にとっては大きな出会いを通して蘇った称名なむあみだぶつや仏さまの歌がある。大学時代に善知識に出会い、改めて「信心」の世界に向き合った時、お寺で子どもたちが称え、無心に歌う歌が十数年前の自分に立ち返らせてくれたのである。ただし、大学時代の出会いは、単に過去の「想起」に留まるものではなく、「新しい始まり」を告げる出来事であった。そして、それはまた後に私が大学院に進み、宗教哲学を専攻し、大学の教員として宗教学を教える切掛けとなったものでもある。

 

                                                 岡村 康夫