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元町生協の公園と商店街 牛来(ごらい)千鶴さん その1

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年4月1日更新

きりん公園の写真1

幼少時代は、両親と2つ歳上の姉との家族4人で元町に住んでいました。
父が勤めていた会社の小さな社宅で、目の前が大きな公園。
その対面に生協(コープ)の大型店舗があり、当時はみんな「生協の公園」と呼んでいました。
お転婆だったわたしは、毎日のように「生協の公園」で遊び、駆けまわって転んでは、膝小僧に傷をつくっていたのを、懐かしく思い出します。
近所には他に、「お山の公園」と「亀の公園」があって、それぞれコンクリートで造られた山と亀がシンボル。その日の気分でたまに他の公園まで繰り出す時は、
「今日は遠くまで行くぞ!」
って感じで、気合が入ったものです。徒歩2~3分の近場なんですけど・・・(笑)
現在、生協はマンションに代わり、公園入口に大きなキリンのゲートがあることから、今は「キリンの公園」と呼ばれているようです。


きりん公園のきりん

「生協の公園」のブランコも、ゾウさんの滑り台も、カラフルにはなっていますが殆ど昔のまま。プールも当時と同じ場所に残っていました。

公園内の様子

 

このプールで、夏には近所の子どもたちと泳いだり花火をしたり、冬にはローラースケートをしたりと、思い出は数え切れません。ある日の夕方には、近所の”ガキ大将”が男の子たちを率いてどこからか帰って来て、大きなビニール袋に入った何やらヌルヌルの物体を差し出して、
「カエルの卵、捕ってきた」
と、プールの傍で遊ぶわたしたちに、自慢げに見せてくれたことも。カエルの卵なんて見たことのない女の子たちは、キャーキャー言ってビニール袋に群がりました(笑)
昭和40年代。棒アイスの安い方が5円で、ちょっといい方が10円だった頃。
もちろんゲーム機なんて無いし、テレビ番組も少なかった時代。
 

公園にあるポプラの葉っぱは、ままごとのお皿になり、たまに出くわすミノムシの皮を剥いでみたり、巣にクッキーのかけらを運ぶアリの様子をずっと眺めていたり・・・
公園では何もかもが遊びの道具になりました。
ガキ大将も、子分(?)の男の子たちも、女の子たちも、また、裕福な家の子も、そうでない子も、みんな仲良く遊び、その中で多くのことを学んでいたように思います。
それにしても、大人になった今見ても、大きな公園。
JR岩国駅から徒歩数分という街中でありながら、こんな広いところで駆け回って遊べる環境、本当に恵まれていますね。
 

商店街の写真

当時、「生協の公園」の傍には酒屋さん、お肉屋さん、魚屋さん、八百屋さんが並び、母と一緒によく買い物に行きました。肉や魚はパックで買うのではなく、必要な分だけビニールに入れてもらうのが当たり前。酒屋さんで買うサイダーは、もちろん瓶入りでした。夏の暑い日の夕食時に、
「ビール買って来て」
と母におつかいを頼まれて酒屋さんに買いに走り、お駄賃にサイダーを買ってもらえるのが、ささやかな楽しみ。そのうえ酒屋のおばさんには
「おつかいかね? 偉いねぇ」
と褒めてもらえるのですから。
ある日には、母と魚屋さんで、ザルに盛られたいろんな魚を眺めながら、
「どの魚が食べたい?」
と聞かれ、アナゴが食べたかったのだけど名前がわからず、「長細くて、醤油の味のおさかな」と、とにかく特徴を伝えて買ってもらったのですが、食卓に並んだのは太刀魚の塩焼きだった(涙)ということも。その時の魚屋さんと母との会話、また、店の空気感など、眼を閉じれば今も目に浮かびます。
 

撮影する牛来さん

 

買い物かごを提げて行き、買ったものを入れて帰るのが当たり前だったその頃。
今思えば、なんとエシカルな生活でしょう。いつの間に買い物かごを使わなくなったのか、記憶は定かでありませんが、
「なんだかアレ、可愛いかったな♪」
と、懐かしく思います。
今更全てをもとに戻すことはできませんが、SDGsの視点からも、’60年代の生活を振り返り、出来ることを一つだけでも始めてみるのもいいかもしれません。突然に大きく世界を変えることは難しいけれど、一人ひとりの小さな積み重ねは、いつかきっと大きな力になるのではないでしょうか。

 

                                             牛来千鶴