母方の祖父母のところにも結構頻繁に、泊りがけで遊びに行きました。
↑祖父母宅(母屋と蔵)
遊びにといっても同年代の遊び相手がいたわけではありません。母は長女で妹が4人、その間に弟が1人。娘ばかりの祖父母家族にとって幼い男の子は珍しかったのでしょう。男兄弟3番目の私でさえ随分可愛がられたものです。結婚前の若い叔母たちからは「箸の持ち方はこうよ」「ご飯の御代わりは、一口残して」などとマナーを講義され、独身時代の叔父は流行のオートバイであちこち連れて行ってくれました。
↑祖父母親子(昭和11年ごろ 末娘の誕生前)
母の実家は玖西盆地から北西の方向の山奥。
今は廃止になった防長バスの高森・三瀬川線が谷間の川沿いを蛇行していて、各バス停で2~3の客を降ろし客を乗せ、久杉のバス停までは一時間近くを要したのではないでしょか。
祖父母親子が笑顔で待ち受ける茅葺屋根の家は、さらに歩いて10分程登ったところにありました。
↑当時は茅葺屋根
大自然の中に、また別の温かい親しみ深い世界があることを感じたものです。
家の軒下に引き入れた清流には、赤や白、橙や黒や金色の錦鯉が泳いでいて、ウドやワラビなどの山菜や柿や栗などの山の幸、祖母の手料理でもてなされました。
ただ、まだ陽が高いうちから「子供は早く入れ」と言って「熱い風呂」を強いられるのには閉口しましたが、帰り際には必ず「内緒じゃけーね」と言って板垣退助の百円札をくれるのを、今だから白状しますが実はお目当ての一つにしていたのではないでしょうか。