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「希望をくれた野球との出逢い」 塩生好紀さん その2

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年10月30日更新

 第2回「希望をくれた野球との出逢い」

グラウンドでの撮影シーン

 小学校に行けなかったが、スポーツや体を動かすことは好きだった。当時、野球が好きという話を友人にしたところ周東中央グラウンドで活動しているスポーツ少年団へ誘ってくれた。今思うと学校に来ていない身分の私に何も気にせず気軽に誘ってくれたことが不思議である。しかし、結果的にはこのお誘いが私の人生を大きく変えてくれた。誘ってくれた友人は勿論、受け入れてくれた少年団チームにも、許可して応援してくれた親にも、そして「野球」というスポーツにも多大なる感謝をしている。

現在の周東スポーツ野球の練習風景
<現在の周東軟式野球スポーツ少年団の練習風景>

 ポジションの名前やルール、バットの持ち方すら知らなかったので、親や友人に色々と教えてもらいながらチームに入団した。練習日はチームメイトのみんなが学校を終える前からグラウンドに行き、寝る時もボールやグローブを枕元に置いて寝ていたほど野球を愛していた。この度の記事のテーマを「出会い」ではなくあえて「出逢い」としたのは、私にとっての初恋は「野球」だったと思っているからである。

スポーツ少年団での試合での一幕
<スポーツ少年団での試合での一幕> ※左のウォータージャグを持っているのが私

 腹筋や腕立て伏せなど1回もできないほどひ弱だったが、友人との自主練習や日頃の監督、コーチから教わったことを活かして、試合に出られるようになった。いつしか野球場の外野の先にある道路まで打球を飛ばせるようになり、目標はその先に見える小学校の校舎に当てることだったが、それは叶わず小学校の野球生活は終わってしまった。

 中央グラウンドと小学校校舎
<周東中央グラウンドと小学校校舎>

 当時の夢は勿論、「プロ野球選手」だった。小学5年生の頃、「小学校に行っていないのに野球選手になれるのだろうか」と不安を覚え、そのことを尋ねるためにファンで応援していた東京読売巨人軍へ手紙を書いた。書いた手紙は残っていないが、お返事でいただいた手紙は大切にしている。普通は身体機能などに目がいくところだが、「高校卒ぐらい」という条件を目にし、この手紙がきっかけで中学校から登校を再開できた。お返事をわざわざ手書きで書いていただいたのはおそらく当時の広報の方だと思うが、いつかお会いできれば心からの御礼を伝えたい。

 読売巨人軍広報からのお返事
<読売巨人軍広報からのお返事(手紙)>
※手紙の中の「100メートル」は「50メートル」の誤り

 決してプロになれるほどの体や能力はなかったものの野球がしたい一心で中学、高校まで通学できた。本格的にプレーしたのは高校までの約9年間だが、最後まで私の野球生活に付き合ってくれたのは、最初に野球に誘ってくれた友人だった。彼は小学校時代、泣き虫キャプテンだったので私たちがよく励ましてあげていたのだが、中学生になり生徒会にも誘ってくれて彼は生徒会長、私が役員として学校活動も共にした。良きライバルというより良き戦友だった。今思うと、不登校少年だった私を救い支え続けてくれたのは彼と言っても過言ではない。


 中学・高校時代
<中学時代(左が私)>                <高校時代(最後列の一番右が私)>

 

 塩生 好紀