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岩国高校と青春 光井純さん その4

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年4月1日更新

 高校時代は今の自分自身の記憶にもっとも近いところにある。それは誰しもそうなのかもしれない。16歳の少年時代後期から18歳の青春時代の入り口に至る、心と体の変化がもっとも大きな時代だからであろう。そしてまた、大学で何を学ぶのか、自分は何者なのか、将来何をしようとしているのか、とるに足る人間なのか、親とどのような関係を保てば良いのだろうか、などと今に続く様々な疑問が芽生えた時代であった。そして多くの悩みを抱えながらも、部活にも懸命に取り組み、試験の結果に一喜一憂する毎日でもあった。

岩国高校上空写真等

 久しぶりに岩国高校を訪ねた。河口現校長によれば、少子化で生徒数はかつての半数ほどだという。耐震補強が施されている以外はあまり校舎に変わっていなかった。そこ此処にかつての私の記憶が密かに息づいている。(高校進学時の1970年は大阪万博が開催された年である)岩国高校に進学するとすぐ、錦帯橋近くの旅館半月庵で3泊の合宿が行われた。学生が高校生活の在り方について先生方から手ほどきを受けるためだ。その時は、初めて会うクラスメイトたちがなんとも偉く大人に見えたのだった。おそらく彼らからしても、米軍基地からすぐ近くの川下中学校卒業生というだけで不思議な緊張感があったのかもしれない。初めの緊張感はあったものの、この合宿で生徒同士の距離が一気に縮まり、通常のクラスは円滑に始まった記憶がある

 岩国高校は文武両道を大事にする、と先生方から幾度となく言われた。特に1年次担任の佐藤太助先生からは黒い秀才になれ、と松葉杖で頭を小突かれ、2年次の佐上緑先生からは自分のやりたいことは自分で決めろ、と何冊も英語の本を読まされた。3年次の河中先生からは未来に妥協するな、と励まされ毎朝早くから図書館に行き、死に物狂いで受験勉強に取り組んだ。今思うと私は素直な生徒だった。言われたことを真正面から受け止め、どう行動すれば良いのか一所懸命、その都度考えて自分なりに計画を練り実行した。まさに先生方が当時の私を分析し、その時々に適切なアドバイスを与えてくださったおかげである。

 校内の図書館を訪ねてみた。ごく普通の図書館だ。高校3年2学期に成績が急落した時、朝早く毎日修行のように通った場所だ。当時は非常に焦っていた。浪人はしたくない、受験科目は8科目もある、受験までに受験科目の授業は終わらない、もちろん予備校もない、1分1秒を無駄にできない濃密な時間をどうやり過ごして結果を出すのか。高校を卒業し大学に入った後も、あの高校3年次は地獄のような時間として脳裏から離れず、何度も夢に見た。今回図書館訪れてみて、当時の自分に、よくがんばったねと声をかけてやることができた気がする。

図書館にる光井さんの写真

 キャンパスは当時、男子棟と女子棟に別れていて、その間には渡り廊下があった(編者駐:現在は男子棟と女子棟と別れてはいません)。そこに集まることは基本的には禁止されていたが、いつも沢山の男女生徒が集まっていた。学園祭ともなれば中庭でコンサートを開き、歌のうまい同級生がスターとなって喝采を浴びた。この渡り廊下から見る景色は青春映画のようであった。

岩国高校校内と光井さんの写真

周防大島の写真

 岩国の南には瀬戸内海に周防大島がある。日本のハワイと言われるほど、浜が白く美しい。ここからも多くの生徒が岩国高校にやってきていた。周防大島は岩国から遠く、この島からの学生の多くは学校近くに下宿して高校生活を送った。親から離れ一人で生活するとは、立派だといつも感心していた。中でも、高校一年次に同級生であった田中君(編者注:現在は改姓して長和さん)を思い出す。彼のご実家は大島の浄西寺で、夏には高校のみんなで彼の寺で合宿を行い、浜で思いきり泳いだ。考えてみると岩国高校はこうした課外授業をとても大切にしていた。冬には錦川で寒中水泳も行った。もちろん希望者だけではあったが、物好きの私は、面白そうと参加することにした。しかし、泳いだ後の準備が不十分であったため、濡れたまま徒歩で家まで凍えながら帰る羽目になってしまった。

 そんな思い出もあるが、岩国高校は文武両道、質実剛健、勉学だけではなく学校外での交流が若者の成長にもたらす価値もとても大事にする学校であると思う。

 

                                               光井 純