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渓谷を流れる錦川と350年の歴史を刻む名勝錦帯橋 光井純さん その2

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年4月1日更新

 錦川は中国山地南部、冠山山地を縫って流れる山口県を代表する美しい河川である。同時に山間の水を集めて蛇行しながら流れるため、雨季には暴れ川となって何百人もの命を奪うほどの災害を引き起こすこともある。それだけに錦川清流線で川沿いに西へと進むと、平時には険しい山と水の流れが幾重にも重なり合って驚くほど美しい。また、透き通った清流の美しさも素晴らしいのである。                            

 今は亡き父が、錦川の美しさは山と水の出会う接線にある、と語っていたのをこの風景を眺めて思い出した。

 錦川の周りには竹林が多い。山からの豊富な地下水がそれを生み出している。山沿いの竹林の風景は錦帯橋に近づくにつれ、大きく湾曲した川の形状が一気に広がり、なだらかな流れへと変わる。この広い河川敷をもってしても、豪雨時には錦帯橋すれすれまで流量が増すのだから驚く。

錦川の写真

 1600年関ヶ原の戦いの直後、周防・長門に移封された毛利より吉川広家は岩国を与えられ、早速岩国城築城と城下町の整備に取り組んだ。城下町(岩国地区)と横山地区を結ぶ橋も架けられたが、大雨になるとしばしば流された。そこで大雨になっても流されない橋を研究した末に、1673年3代領主吉川広嘉によって錦帯橋が架けられたのである。

 その後276年間修復と架け替えを重ねながらも、1950年のキジア台風で流失するまでずっと役割を果たし続けた。そのことを考えると、当時の建築技術の高さと技術継承の仕組みに感心する。錦帯橋の辺りでは錦川の幅は200mもあり、たびたび洪水を引き起こす暴れ川にかける橋なので、難度も非常に高かったに違いない。五橋として知られるように5連のアーチ橋が石造の4本の橋脚と両岸によって支えられている。

当初のままの形で現在まで継承されていることは、世界に類をみないのではないだろうか。米国留学時にイェール大学の先生が世界の名橋として紹介していた際、「それ、私の郷土の橋です」と言えたことがなんと誇らしかったことか。

錦帯橋写真

2005年の増水時の錦帯橋の写真

 昨夏、由宇青少年自然の家で、数学者である弘中平祐先生のセミナーで講義をさせていただく機会があった。準備のために研究をすると、どうやら錦帯橋のアーチが、円や放物線ではなく懸垂曲線(カテナリー)であるとわかった。構造体の軸方向に対してのみ応力が発生する懸垂曲線は緩やかに垂れ下がる電線や富士山の山裾など様々な自然景観の中に見出すことができる。自然の形の背後にある数学は見えないけれども、人は自然のバランスを直感する優れた感性を持ち合わせているのだろう。世紀初頭に錦帯橋を完成させた大工は試行錯誤を重ねるうちに自然にこの懸垂曲線に到達したに違いない。サグラダファミリア教会を19世紀後期に設計したアントニ・ガウディも懸垂曲線の応力特性を生かし、教会の構造模型を逆さにしてカテナリーアーチの検討を行っていた。錦帯橋とサグラダファミリア教会の構造に共通性があるとはとても興味深い。

サグラダファミリア写真

 また、遠景から眺めると、錦帯橋と山並みの形状、そして錦川の水(流体力学)のそれぞれが平衡を保ち、美しく共鳴し合っていることがわかる。人間は自然から生まれ自然の中で育ち、そして自然の原理を身につけているからこそ自然の美しさに感動するのだろう。

 ちなみに、錦川の伏流水は軟水で、日本酒の醸造に適している。岩国にはこの自然の恵みを活用した多くの銘酒がある。私が日本酒好きなのもここに遠因があるのかもしれない。思いつくものをあげただけでも、獺祭、五橋、雁木、金雀、日下無双、黒松などと有名人揃いである。岩国の自然が育んだ水が銘酒を作り、人々は水を支える山と森を守っている。まさに自然と共生し支え合うことによって世代を超えた暮らしの永続性が生まれる好例である。

錦川写真

この美しい自然とそこで育まれた文化を、我々は次の世代へしっかりと受け継いで行かなくてはならないと思う。

 

                                               光井 純