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吉香公園・高水学園 弘兼憲史さん1

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年12月13日更新

市:幼少期はどちらにお住まいだったんですか。

弘兼:寿橋のすぐそばの手前にありました。うちがね、最初防府から引っ越してきてすぐそこの川端のところで、おふくろがお店やってたんですよね。洋服屋だったかな? 古い記憶だとですね、朝鮮戦争が終わって、まだ連合軍がですね、この岩国基地を出入りしていたころだから、まだアメリカの兵隊だけじゃなかったですね。いろんな国の人がいた。

市:最初はイギリスとオーストラリアでしたっけ?

弘兼:オーストラリアですね。オーストラリア兵がいましたね。この道はよく歩いてたな。随分変わったけど。

川下地区の通りの写真

市:幼稚園は川下幼稚園ですか。

弘兼:川下幼稚園ですね。川下小学校で。岩国小学校に移ったのが小学3年生くらいの時だったかなあ。それは、自宅を岩国の錦帯橋の方につくったんで。そこから転校して岩国小学校に通っていました。そのときにやっぱりよく釣りに行ってましたね、父親と。

市:遊ぶのは錦帯橋のあたりという感じですか。

弘兼:そうですね。あと自動車学校のあたりで遊んでましたよね。自動車学校の前は田んぼで、その辺に空き地がいっぱいあったんで三角ベースの野球をよく遊んでいました。ほんとに娯楽はなかったですね。小学校のときは漫画と野球ですね。中高になったら、貸し本屋というのがありましてね。今のレンタルコミックとは違うんですけども、貸し本屋専門の漫画本がありまして、借りて読む。そこで漫画家のもとができたような気がするんですが。そのときによく読んだのが白土三平さんの「忍者武芸帳」。あと水木しげるさんの「墓場の鬼太郎」。のちに少年マガジンにうつって「ゲゲゲの鬼太郎」になったんですが、最初は「墓場の鬼太郎」なんですよね。「悪魔くん」とかも、よく読んでましたね。

市:私も昔の水木しげるさんの「墓場の鬼太郎」をみて、はじめて貸し漫画というのがあったことを知りました。

弘兼:あ、そうですか。けっこうね、岩国にも貸し漫画屋がポツポツあったんです。で、学校からの帰りにとかに寄って、中学、高校の頃はよく利用していました。それがまあ唯一の娯楽。

弘兼憲史さん写真1

市:小学校時代は吉香公園でもよく遊ばれたんですか。

弘兼:公園のほうでも遊びましたけど、こんな感じじゃなかったですからね。こんなにきれいに整備されてなくて、錦雲閣のへんだけだったと思いますよ。

市:ずいぶん変わりましたからね。

弘兼:ええ、変わりました。錦雲閣のあたりに吉香公園があって、田中穂積の像が立っていて、そのほかは岩国高校の敷地でしたからね。あとはお堀が、あのころは水があんまりなくて、下まで下りていって、とげのある、あれは菱の実っていうのかな。それを採って、彫って笛を作ってましたね。角笛みたいな感じの。

昭和43年の錦雲閣の写真

↑昭和43年頃の錦雲閣の写真

市:岩国城も上がられました?

弘兼:岩国城はもうありました。登ったりしてましたね。

市:歩道も舗装していなかったでしょうから。

弘兼:舗装していなかったですね。で、降りるときは、上がるときもそうですけど、わざと獣道みたいなところを通るんですよ。今日はこのへんから下りてみようって。あの辺は植林じゃない原始林じゃないですか。それをだだって滑り落ちながら下りるんです。かなり転んでお尻を打ったりするんですけれども、それが面白いから。

市:「少年 島耕作」は島耕作が高校生のときの話ですが、あれに鷹水高校って出てきますよね。

弘兼:そうですね、学生時代の島耕作は完全に自分の分身ですね。鷹水高校 (高水高校)は僕が当時通っていた学校です。僕は六年制の1期生なんですよ、僕らの前までは付属中からだいたい岩国高校へ行っていたんですけれども、高水がやっぱりビジネスですから、大学への進学者を増やそうというので、付属中の連中にそのまま持ち上がってくれないかってもちかけてきたんです。で、みんな説得されちゃって、岩国高校行ったほうがよっぽど安いんですけど、「お願いします」とか言われたら「まあしょうがねえか」ってんで。僕らまあ楽でしたからね、同じ仲間がそのまま持ち上がるから。

 地理的には僕は岩国高校のほうが近かったんです。姉とかはみんな岩国高校ですね。そして高水に行って寮に入ったんですよね。僕の家から自転車で20分くらいの距離でしたけど。理由は家にいて親と暮らしてもおもしろくないから。寮に入って団体生活だったんですけど、これが非常に楽しかったですね。愛宕寮という寮なんですけど、「少年 島耕作」にも出てきます。ただ、あの頃は洗濯とか全部自分でしなきゃいけなかった、洗濯機とかなくて、手洗いでしたね。じゃばらの洗濯板というのがあって、それに固形石鹸をゴリゴリとこすりつけて。屋上にロープを張ってパンツとか干すという。そういうことをやっていましたね。

愛宕寮の室内

昔の高水高校の写真

市:クラブ活動は。

弘兼:クラブ活動は、最初はもてるかなと思って軟式テニス部に入ったんですけど、練習が面倒くさくてすぐにやめましたね。あのとき身軽だったので体操部にも入って、大車輪を試みて上から落ちて「これは危険だからやめよう」と思ってすぐにやめました。 それで英会話部というのもちょっと入ったり、文芸部というのがなかったので作って、小説とか詩とかを書いていましたけど、みんな中途半端でしたね。ほとんど部活というより、ただ遊びというか。だからあんまり部活はしなかったですね。

文集の中の弘兼さんの文章

高水高校外観写真

市:高水高校のマスコットキャラクターをデザインされているんですよね。在校生からは可愛いという評判もあるようです。

弘兼:あれは高水高校から頼まれたんですよ。職員のNさんがわざわざ東京に来てね、早稲田大学のマスコットの早稲田ベアっていうのを僕がデザインしたっていうのを彼女が知っていたので、あんな感じで描いてくれと言われたんです。じゃあ高水だから鷹をモチーフにして描きましょうっていうので、子どもの鷹とか横向きとか前向きとかを描きました。

市:成長していく感じですね。

弘兼:付属中の鷹は靴を履いてますもんね。

高水中学校マスコットキャラクター

高水高校マスコットキャラクター


【今回登場した場所】

『川下地区・寿橋・岩国往来』

 岩国市を流れる錦川は、河口付近で2つに別れそれぞれ今津川と門前川になります。  その2つの河川に囲まれたデルタ地帯が川下地区と呼ばれ、弘兼先生が岩国で最初に住んだ場所はこちらに含まれます。岩国基地が所在する場所でもあり、昭和30年代・40年代には弘兼先生の思い出にあるように、多くの外国人兵士が行き来していました。

 本文中に出てくる寿橋は、今津と川下を結ぶ橋として大正11年(1922)に架けられました。現在の橋は平成元年(1989)に架け直されたものです。これ以前は渡し舟が行き来する光景がありました。

 寿橋のたもとには、岩国領主の吉川公が海路で江戸にいくときの休憩所であった今津茶屋跡があります。かつてはここを起点として錦帯橋を経由して本郷町まで至る、「岩国往来」が整備されていました。 「岩国往来」は令和元年10月には文化庁が選定する「歴史の道百選」にも選ばれています。

(問い合わせ)

岩国市文化財保護課 0827-28-5353

 

 

『吉香公園』

  旧山口県立岩国高等学校の跡地に造られた大公園。日本歴史公園百選に選ばれました。

  公園内には芝生や木陰、ベンチなどが設置されて、市民の憩いの場となっています。中央の大噴水の豪快な放水は一見の価値があります。

  また、隣接する吉川氏の居館跡(吉香神社境内)も公園となっており、本文中でも言及された錦雲閣(国の登録有形文化財)はこちらにあります。

(問い合わせ)

岩国市観光振興課 0827-29-5116

吉香公園と錦雲閣の写真

 

『岩国城』

 岩国城は、初代岩国領主吉川広家によって、慶長13(1608)年に造られた山城で、眼下に流れる錦川を天然の外堀とし、標高約200メートルの城山山頂に位置していました。

 天守は三層四階の物見南蛮造りでしたが、築城後7年で一国一城令により取り壊されました。現在の天守は昭和37(1962)年に別の場所に建てられたものです。

 岩国城までは麓の吉香公園からロープウェーでのぼることができ、天守閣からは吉香公園、城下町、錦帯橋をはじめ岩国市内一円、瀬戸内海の島々や宮島、四国までも一望できます。

(問い合わせ)

錦川鉄道株式会社 岩国管理所

Tel:0827-41-1477

岩国城の写真

 

『高水学園』

 明治31年に設立された、高水村塾が前身の中高一貫校。平成30年に創立120周年を迎えました。高水高校、高水付属中学校、岩国短期大学を有する学校法人高水学園が運営しています。

(問い合わせ)

学校法人 高水学園 0827-31-7191

URL:http://www.takamizu.ed.jp<外部リンク>

高水高校の後輩へのメッセージ