ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 私の岩国 > 高森高校と助走路 岩崎由純さんその1

高森高校と助走路 岩崎由純さんその1

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年4月1日更新

自分にとって岩国は故郷です。でも18歳で離れたので、思い出の場所はほとんど高校生までの行動範囲で、玖西盆地です。

郷里、高森を離れて東京にある日本体育大学に進学したのは1978年のことでした。実家が小売業をしていたので、長男が家を継いで商売をするのが当たり前だと言われていた時代です。しかし、父はスポーツを大好きだった自分が、日本にはまだ職業として成り立っていなかった、当時はまだ誰も知らなかったアスレティック・トレーナーになりたいから東京の体育の大学に行きたいというと、黙って送り出してくれました。
その後、日本体育大学からニューヨークにあるシラキューズ大学大学院、コロラドにあるUSオリンピックセンター、フィラデルフィア・イーグルスと修行を積んで、帰国後にNECレッドロケッツ・女子バレーボール部のアスレティック・トレーナーに就任しました。現在も、東京、川崎を拠点に活動をしていますので、18歳までの記憶が「私の岩国」の原点になります。
だから最初に思い浮かぶのは、青春時代を熱く過ごした高森高校です。やんちゃだった時代、自分は良いことも、悪いこともしてきたように思います。今では恥ずかしくて言えないような事件も起こしました。また陸上部時代に三段跳で、山口県高校新記録を出したのは指導して下さった先生方、そしてサポートしてくれた家族のおかげだと、今も心から感謝しています。

高森高校

実は、高森高校のメインの校舎は、当時のままで、卒業後には講演にも呼んでいただき伺っています。しかし、今回の『私の岩国』の取材のためにグラウンドの端に行ってみることにしました。

助走路

なんと、40年前に卒業した時のまま、ピットは残っていました。これは、走幅跳や三段跳で使われる助走路です。砂場に向かってまっすぐ伸びる40mの全天候型の走路は、自分が高校生時代につくられたものです。その当時、県体が行われる陸上競技場は、タータンと呼ばれる全天候型トラックに変わっており、我々はそれに対応するためにベルトコンベアの廃材などをもらい受けて、その上で走って練習していました。しかしそれでは、跳ね返りが強くて実際の競技の時とでは足幅が変わってしまいます。踏切版に足が合わなければファール。記録なしになってしまいます。
インターハイ出場が決まった時の寄付金で整備されたように言われていましたが、実際には父がその費用を負担していたこと、当時の校長先生を始め管理職の方々の特別の理解もあって実現したことを知った時には、涙が溢れました。県新記録は出したものの、ケガなどが続き、皆さんのご期待に応えられなかったことが悔しくて仕方ありませんでした。しかし、その強い思いが、ケガに苦しむ選手のサポーターになる、すなわちアスレティック・トレーナーを目指すきっかけになりました。自分の全ての原点は、この「助走路」にあります。