小さい頃の私にとって、岩国の街は「世界の全部」でした。保育園児がニュースを見ながら、母に「東京って岩国よりすごい街なの?」と疑いを持って聞くほど、自分の住んでいる街に何か絶対的な自信のような、誇りのようなものを持っていた気がします。
祖父母は、昭和42年から12年間、私が小学4年生になるまで、麻里布3丁目にあった元の岩国総合庁舎で食堂を営んでいました。
当時、庁舎の食堂は朝食から夕食まで三食を提供していました。朝は5時くらいから仕込みをし、まかないを食べる時もほぼ立ちっぱなし。会議用のお弁当などの発注があればさらに忙しさを増します。食堂は いつも活気にあふれていました。
というわけで、そんな忙しい環境の中、子どもは当然かまってもらえません。タバコと食券の販売カウンターに座っている祖父の膝の上が私の定位置でしたが、そのポジションを弟に譲ってからは、居場所がなくなりました。
誰彼かまわず話しかけ、おしゃべりと質問が止まらない、いうところの「かまってちゃん」だった私の相手をしてくれたのは、食堂の常連さんや麻里布の街の皆さんでした。外で誰かから聞いた面白い出来事を家に帰って母や祖父母に話す…現在の喋る仕事の素地は、この街が作ってくれたのだと思います。
通っていた麻里布小学校では、留守家庭児童保育所(今の放課後児童教室)にお世話になりました。
40年前から同じ建物です。下駄箱は とりわけ懐かしく感じました。「ただいま」と言って靴を脱ぐ場所が家以外にある事がなんとなくうれしかったです。
現在の全校生徒数は私が在学していた”マンモス校”と呼ばれていた頃より減っているのに、ここに通う児童の数は昔より増えているとか。部屋の中の様子はほぼ同じ。タイムスリップしたようでした。この建物、私が入学した時に建ったものですが、今年限りで建て替えになるそうです。ちなみに、今の教室が立つ前の仮設の児童保育所だった場所は こちら。
体育館の入り口スペース。今は倉庫になっている場所です。よくここに全員入ったなぁと今になって思います。
通学には、夜の繁華街を通って行く道が最短でした。夕方はあまり感じないのですが、朝は酔って道に寝ている人を横目に学校へ行くこともあって少し怖かった記憶があります。
児童保育所から帰っても食堂はまだまだ忙しい時間。街なかで遊びました。好きだったのは、ニチイの屋上のジュークボックスで曲を聴くこと。大人のまねごとがしたかったのだと思います。100円で4曲くらい選べたでしょうか。自分の選んだ歌に周りの大人が「この曲いいね」などと話す声が聞こえると、なんとも言えないうれしい気持ちになれました。
中通りの国際パーキングが マルキュウだった頃を覚えています。お菓子と果物のヤマザキさんが行きつけでした。
ゲームセンターの前で中を覗いていると ベースの外人さんがピンボールをさせてくれた事もありました。当時は1ドル300円代の頃。休暇で街に出る外人さんがたくさんいて、基地の町ならではの独特の雰囲気でした。
小学校の低学年の子が一人でぶらぶらしていると心配して声をかけてくれる人もいたのですが、どこの子?と聞かれ「総合庁舎の食堂の子です」と答えると だいたい状況を察してくれました。しかし素性が分かっているので、いたずらなどした際には誰からかすぐに食堂まで知らせが入って、仕事着のまま飛んできた母に叱られました。
商店街が閉まる時間になると今度は飲食店の明かりが賑やかになります。自動販売機で売られる業務用の氷の香りが強くなって、カラフルなネオン看板が灯りはじめます。夜の街に繰り出す大人を見ていると、子供心にも何かわくわくして楽しい事がありそうな気分になりました。今もある銭湯のこんぱる湯さんには自宅のお風呂が壊れた時によく通いました。向かいにある居酒屋さんの店頭で回っているローストチキンを眺めるのが大好きで用もないのに見に行っていた気がします。
ほぼ毎日通っていた公園は昔とはかなり変わって、すっきりとおしゃれな雰囲気になっています。以前は藤棚やプール、遊具などがたくさんあった気がします。その中にトンネル状の遊具があり、友達と秘密基地を作ろうとタオルや食器やお鍋なども家から持ち寄ったのですが、ある日行ってみるとホームレスのおじさんにまるごと占拠されていました。
公園の周りの飲食店には よくゲン担ぎの盛り塩がしてありました。美しく盛られた塩の山は翌日の夕方には湿気を吸って少し硬くなっています。子ども達は、みんなそれを踏んで壊してまわるのが大好きでした。普通ならお店の人に叱られそうなものですが、子どもが喜ぶからと開店前の掃除でも盛り塩が踏まれるのを待ってから片付けてくれるお店もありました。
そんな寛容なところのあるちょっとした思いが商店街で遊ぶ私達を見守ってくれていたような気がします。
福井恭子