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【岩国小学校・岩国学校 片塰満則さんその1】

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年4月1日更新
生まれ育った岩国を離れ、東京で暮らすようになってから既に30年以上経ちました。美術大学への進学や、CGアニメーションの仕事を続ける為には、それが一番良い選択だと思い、これまで過ごしてきました。それでも時折思うのは、現在の私の仕事を支えている、アニメーションや美術への強い関心は、間違いなく岩国で育まれたものだ、ということです。今回「私の岩国」のバトンをいただき、私が故郷で触れてきたものを振り返ることができ、大変嬉しく思います。

大げさな言い方かもしれませんが、今の私を形作っているものを紐解いていくと、まず思い出されるのが、岩国小学校です。その歴史は古く、何しろ私が在学していた40年以上前に、開校100周年を迎えているほどで、今回改めて調べてみると、明治四年(1871年)に「錦見小学校」として、学校が誕生した、とあります。
その長い歴史を実感できるのが、同校敷地内に残されている、旧岩国学校校舎(岩国学校教育資料館)です。
岩国学校の外観写真
一年生の私が過ごした木造校舎は、この建物の直ぐ向かいにありました。担任の先生が「いわくにがっこう」という昔の校舎です、と説明されたのを良く覚えています。入学当初は、まだ改修工事前の状態で立入禁止だったのですが、数年後に修理され、内部の見学が許されるようになりました。一度授業で見学した後も、私は放課後、自主的に(笑)足を運びました。木造の急角度の階段や、古い教科書、農機具、といった、機械化される以前の手作業で作られたそれらは、当時の私の家にあった物とは違う佇まいをしており、そこに強く惹かれていたのだと思います。
岩国学校の外観写真
3年生からは新しい鉄筋の校舎(新校舎と呼んでいました)に移り、それにあわせて、木造の校舎(旧校舎)は姿を消してしまいました。それでも、校舎と運動場の間にある、榎(えのき)や欅(けやき)といった樹々はそのまま残され、図工の時間に何度も描いたものです。ただ、当時の私は絵を描くことが得意ではなく、一度も賞をいただいたり、文集「えのき」の表紙に採用されることは無かったのですが。
校庭のクスノキ
校庭のクスノキ
今回40年ぶりに正門から訪れた時、校舎や遊具がほとんど変わっていないことに驚きました。
が、教室に近づくにつれ、昔とは大きく変わった点に気づきました。下駄箱に並ぶ靴です。
下駄箱の写真
鮮やかな、そして様々な個性的な色の靴は、私が通っていた時代には無かったものです。私が当時履いていたのは、白い”ズック”と呼ばれていたシンプルな靴でした。高学年になってやっとグレーか青い運動靴になったと記憶しています。また現在の靴は、厚みやボリュームのあるハイカットの靴が多いですね。校舎という入れ物は変わらなくても、子供達の姿は少しずつ時代とともに変わっていくんだな、そんなことを考えながら、岩国小学校を後にしました。
下駄箱の写真
余談になりますが、通学には子供の足で40分近くの時間がかかっていました。ルートは幾通りもあったのですが、私が気に入っていたのは、車の通らない住宅街の細い路地を縫うように進んで行くコースでした。
実家は当時出来たばかりの住宅地にあり、あまり個性のない家が立ち並んでいましたが、学校が近づくにつれ、枇杷(びわ)や無花果(いちじく)、蜜柑(みかん)などの大きな庭木のある家や、あるいは、たくさんの鉢植えが玄関先に並ぶ、路地に面した家が増えて行きました。その変化から私は、岩国小学校が歴史のある地区に建っている、ということを、いつのまにか感じとっていました。そのことは現在の仕事においても、背景となる家や街並みにも、物語を感じさせなければいけない、という思いにつながっています。