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日本製紙 社宅 飯田和子さんその1

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年4月1日更新
『私の岩国』をどこから書き進めるか漠然と考えておりましたが、カメラをおあずかりした瞬間、私が岩国で最初に住んだ場所から時系列に沿って紐解いてみようと方向性が定まりました。
日本製紙の社宅跡
実際、カメラを覗く私は時空を超え、中学時代にもどっていました。中学生の私が住んでいた、日本製紙株式会社の社宅。当時はまだ山陽国策パルプ株式会社という名称でしたが、父親の転勤に伴い中学3年2学期で運動会直前という恐ろしく受験に近い時期に、島根県江津市から岩国に引越してまいりました。何もわからないまま時間だけが猛スピードで過ぎ去り、本当に先が見えず困り果て、具体的にどうしたらよいのかも分からず悩んでいました。そんな時、同じ社宅にいた同級生に、転入先の東中学校のことや受験のことをいろいろ教えてもらったことを今でも思い出し、本当に感謝しています。
社宅に面した道路
あの時住んでいた社宅はありませんでしたが、生垣は当時のままで、友達と歩いた東中学までの通学路はそこにありました。工場の近くに住むことで、他では味わえない経験が色々できました。引込線にチップを積んだ貨車が通過するときの木の匂いは今でも思い出されます。父は、そのチップがパルプに加工され上質な紙が出来上がることを語ってくれ、工場見学で大きなロールに巻かれた紙を見た時はもう化学の魅力にはまっていました。今でも理科好きな私を育ててくれたのは工場だったと思っています。
日本製紙岩国工場
今回、撮影のために工場の敷地に入ることを許され、工場の煙突を見上げていると、公害対策に頑張っていた父が正門から出てくるのではないかと思うほど、工場はあの時のように活気にあふれていました。当時は何気なく見ていた煙突ですが、電車や飛行機から煙突の煙(父は水蒸気と言っておりました)が見えると、『岩国に戻って来た!!今日も岩国は元気だ!!』と思えるほど、今では私にとって岩国のランドマークとなっております。