その当時の光景は鮮明に覚えているのになぜか音がなく、幼子の記憶としてずっと残りました。
あの当時は何の感動も覚えなかった梅の木。
15歳で故郷を出て歌の道に入った私は、何度もくじけそうになりました。
何度も泣いて何度もくじけて、何度も絶望して・・・、ですが、そのたびに頭をよぎったのが「臥龍梅」のことでした。
もっとも上京するとき、父と約束をしていました。
「成功するまで絶対帰ってくるな」という約束です。
一人娘だった私を東京へ送り出す事はどれほどの覚悟があっただろう・・・と、今となれば親の気持ちを察することができます。
しかし、市川昭介先生という神様みたいな存在の方にお声かけを頂いた私に、行かないという選択はありえませんでした。
結果父は一人残り、私と母が上京することになったのです。
1年に1~2度くらいは山口県内でお仕事があったため帰郷しましたけれども、それ以外は絶対に帰りませんでした。
「父との約束」は大きな大きな石となって、「覚悟」を確固たるものにしていたのです。
「成功」ということが何かはわかりません。でも、私が父から静かに教えられたことは「臥龍梅」の姿にこめられていた気がするのです。
2013年、その父が突然他界しました。
私は一生分の涙を使ってしまったのではないかと思うくらい泣きました。
後悔と悔恨の念に、朝は二度と来ないような気持ちになりました。
ちょうどその時、私は新曲のレコーディングと連日の舞台が続いていました。
テイチクレコードのディレクターさんからは「レコーディングも発売日も考えようか・・」という話もあったのですが、生前の父に何度も言われていた言葉がありました。
「万が一どんなことがあっても、仕事の皆さんに迷惑をかけちゃいけんよ」と。
母に先に帰郷してもらい約1週間、父を守ってもらいながら私はレコーディングまで終え最終の飛行機で帰郷しました。
親不孝をしたと自分を責めながらの毎日だったからこそ、父の教えや思いを貫き通さねばというそんな思いがあったのだと思います。
「臥龍梅」は決して華やかな花ではありません。
香り高く、花屋の表玄関に並ぶものでもありません。
「歌の道」に入った人間は、「ひまわり」や「バラ」を志してよいのだと思います。
そうなるべきだと思うのです。
しかし、岩国で生まれ岩国で育ち岩国を愛してやまなかった父は「臥龍梅」を娘に教えてくれました。
人生はつらいことがたくさんあり、花の咲かない1年を過ごすかもしれないけれど、そんな時こそ根をはり、深く深く地面に根を張りいつかくる春を待つのだということを。
長く離れて暮らしていたけれど、幼いころ父が見せた「臥龍梅」の姿から、私はこんな風に生きていこうという教えをもらっている気がします。
決してあきらめず、春がくれば静かに可憐な花を付ける。
幹は老骨の如き姿だけれど、届ける笑顔は何百年たっても「可憐」であること・・・。
2015年2月にテイチクエンタテインメントより発売された「呼子舟唄」のカップリング曲として、私が初めて作詞をした「臥龍梅」という歌をディレクターさんが入れてくださいました。
「小さな花は土深く 根を張り生きて春を待つ お前もそんな花になれ」
そんな風に生きていきたいと思うのです。
皆様約1か月の間、「私の岩国 山口瑠美編」にお付き合いくださいましてありがとうございました。またどこかでお会いできる日を楽しみにしています。