ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

中津居館跡について(Q&A)

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年12月1日更新

中津居館跡に関してよくある質問です。

問1、中津居館跡ってどういう意味?

 中津居館跡の「中津」は川下地区に今も残る地名で、その由来は「中州」とも言われており、遺跡の所在地周辺で確認できる最も古い地名の一つです。「居館」とは、有力者が生活および政治を行うために築いた屋敷のことを指し、室町~鎌倉時代頃に全国各地で一定の勢力を持った豪族が堀や土塁を伴う居館をつくりました。

問2、中津居館跡はいつ頃の遺跡?

 発掘調査の結果、14世紀の前半ごろからここに大規模な建物が建てられるなど、居館の一部が造られていたとみられています。その後、戦国時代中頃まで居館跡として使われていた可能性があります。江戸時代に入ると居館としての役割を終え、吉川氏によって瑞光寺という寺が置かれました。

問3、誰が中津居館跡を造ったの?

 この居館を誰が造ったのかを示す記録は残っていません。しかし、居館が造られたとみられる時期の勢力分布などから、当時岩国を拠点に勢力を持っていた弘中氏一族が築いたとみる説が有力です。弘中氏は守護大名大内氏に仕え、大内氏の重臣だった一族です。ちなみに、地元の言い伝えや江戸時代の書物では、この居館を築いた人物を「朝日長者」または「椿長者」などと伝えています。

問4、何のために中津に巨大な居館が造られたの?

 錦川河口に立地した理由は、錦川と瀬戸内海の両方に面していることから、当時流通の主流であった海および河川を行き来する人や物資を掌握するうえでメリットがあったためと思われます。しかしながら、錦川の氾濫と隣り合わせでもあったことから、敵の侵入を防ぐ目的以外に、洪水に対する堤防の役割も踏まえて大規模な土塁が築かれたことが考えられます。

問5、中津居館跡にはかつて何があったの?

 現地には館を取り囲んでいた土塁の痕跡が現在も残っています。土塁に囲まれた内部には、当時としては大変規模の大きい建物が少なくとも1棟建っていたことが調査で確認されています。居館内部のうち、調査をしていない部分には、普段の生活を送ったり客人と面会する際に使った建物や、厩、庭園などがあった可能性があります。一方、土塁の外側には堀のような大きな溝状の痕跡が見つかっており、かつては居館の周りを堀が廻っていた可能性があります。

問6、中津居館跡にはどんな特徴があるの?

 中津居館跡は、山口の大内氏、大分の大友氏など、守護大名が築いた居館に匹敵する規模をもつ大規模な居館跡です。このような大規模な居館がどのような経緯で築かれたか未だに謎の部分が多く、居館の築造主とみられる弘中氏の経済力や、居館の築造に大内氏がどの程度関わったかといった点から、中世における岩国地域一帯の歴史像を解明するうえで重要な意味を持つ遺跡といえます。また、河口の三角州に築かれていることや、現地の土塁跡、および地下の建物跡などが良好に保存されていることもこの遺跡の特筆すべき点といえます。

問7、以前は「加陽(かや)和泉(いずみの)(かみ)居館(きょかん)(あと)」と呼ばれていたのに何故名前が変わったの?

 以前は岩国市教育委員会でもこの遺跡を「加陽和泉守居館跡(かやいずみのかみきょかんあと)」と呼んでいました。しかし、この「加陽和泉守」なる人物は毛利元就の直轄水軍の一人として厳島の合戦に参戦し、この合戦の後に中津居館跡に駐留したことが記録からも明らかになりました。言い方を変えれば、「加陽和泉守」はすでにあった居館に一時期留まっていたに過ぎず、居館の成り立ちについて誤解を与える可能性があると思われることから、平成24年2月に遺跡周辺の旧地名「中津」をとって「中津居館跡」に名称を変更しました。

「中津居館跡発掘調査」トップページに戻る